渋パブ・リレー・エッセイ (RELAY ESSAY)

裁判の意義と冤罪

2013.04

古橋 将

はじめまして。1月から渋谷パブリックにお世話になっています新65期弁護士の古橋将と申します。今月のリレーエッセイ担当になりました。担当になったものの,エッセイなど今まで書いたことも無い私としてはなにをお話しすればよいのやらよくわかりません。そこで,渋谷パブリックのホームページの過去ログを見てみました。皆さん様々なことを書かれていますね。先月の修習生廣瀬君は「法律家としての適正」。難しいことをよく考えられていてとても修習生に成り立てとは思えません。と,思えば別の方は趣味の山登りなんてことも書かれています。興味深い内容ですね。私は未だ富士山にさえ登ったことがありません。富士山には入山料がかかるようになるかもしれないので早く登ってみたいですね。書いた方を誘ってみます。

 とりあえず,一読した私の結論は…なにを書いてもよいのでしょう。

 そこで,最近考えさせられる「冤罪」についてお話ししたいと思います。

 なぜ,このテーマを選んだかといえば,最近読んだ文献が関係しています。「青木英五郎著作集」という文献です。この文献は,とある弁護士の方から貸していただいて読むことができたものです。青木英五郎先生は,前半が裁判官,後半が弁護士という人生を過ごされました。多数の執筆活動をなさっており,私が貸していただいたのがその著作集U「冤罪とのたたかい」です。この本では,八海事件,二保事件,狭山事件といった著名な冤罪事件を取り上げ,なぜそういった冤罪が生まれてしまったのかを詳細に検討されています。内容は多岐にわたるためここで細かくお伝えすることができないのは残念です。著書の中で,青木先生は「誤判とは,裁く者と裁かれる者との立場が交替するような裁判である。裁く者が加害者となり,裁かれる者が被害者となるのである。…」と語られています。この本で大事なことは冤罪の原因を細かく検証されていることです。

 裁判に携わる全ての法曹は誤判による冤罪の怖さを意識しなければなりません。最近,足利事件,東電OL事件と言った事件で再審無罪が出され,誤判がいかにおそろしいもので,人の人生を狂わすものかが少しずつ周知されてきていると思います。誤判という結果が明らかになったとき批判することは簡単なことです。しかし,大事なことでは批判ではないといます(もちろん反省は絶対に必要ですが。)。いずれの事件でも,弁護士,検察官,裁判官はご自身の職務に熱心に取り組まれたことでしょう。実務経験豊かな方々でさえ誤判を防ぐことが難しいのです。本当に大事なことは,なぜ,そのような誤判が生まれたかを検討することです。法曹三者は誤判が生まれた原因を共同して真摯に追及すべきです。そしてその原因について全ての裁判官・検察官・弁護士は学ぶべきです。検察庁も裁判所もこの検討を内部だけで終わらしている現状は変えるべきです。それが法曹としての責任だと思います。

誤判として一番わかりやすいのは,「無実の人を有罪にする」ことと「真実犯人である人を無罪にする。」ことでしょう。もちろんどちらもあるべきではありません。しかし,人間は神様ではありません。過去に起こった全ての事実を明らかにすることは不可能です。だからこそ謙虚に証拠に向き合わなければなりません。そして向き合う大前提には,刑事裁判の鉄則である「疑わしきは被告人の利益に」が徹底されるべきです。これを徹底することは「真実犯人である人を無罪にする」リスクを負うことになります。しかし,このリスクを負ってでも「冤罪」を避けなければならないのが刑事裁判です。

 冤罪を生む原因は,弁護士にも当然あり得ます。その可能性を排除するため私もたくさんの勉強をし,プロとしての技術を日々磨かなければならないと思っています。

 はじめてのエッセイとしては思ったより真面目な話題になってしまいました。またお話しさせていただける機会を楽しみにしています。